そろそろセクシャリティの話をしようか

セクシャリティ。性の属性、プロフィール。

最近はSNSでもこうした話題をよく目にするようになりました。

僕はそういった話を決してタブーだとは思いません。かといって、自ら積極的に話してもこなかった。それは、セクシャリティが政治や宗教と同じように、当事者ではないと考えるほとんどの人にとって思い込みの産物に過ぎないからです。当事者同士ですらレッテルを貼り合ったりしがちで、認識をすり合わせながら話し合うことはとても難しい。

だから、これまではごくごく近しい相手としか、そういう話をしてきませんでした。

でも最近は少しずつ世の中が動きつつあることを感じます。LGBTという言葉が社会的に認知され始め、周囲に当事者意識を持つ人が増えました。自分が当たり前に思ってきた価値観を急に偏見だと言われ、どう考えて良いかわからずにいる人がいることも知っています。

それなら、そろそろ自分の整理してきた視点を共有しても良いのではないか。そう考えるようになりました。

ネットはもともと集合知を作る場ですし。

今回はそんなお話です。

異性愛か、同性愛か

僕は、男性の体を持って生まれました。そして、性の対象は女性の体だけです。

つまり僕は「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」ということになります。

これは、セクシャリティの中では多数派(マジョリティ)の一つ。

普通で良かったね、普通サイコー。

そう考えれば、この話はこれで終わりです。

でも、本当にそうでしょうか。他の視点を持つと、少し見え方が変わってくるかもしれません。

僕が女性の体しか求めていないのには、実は「男性の体を持って生まれた」以上の理由があります。

性による特別視

「男性嫌悪(ミサンドリー)」という言葉をご存じですか?

「男性や男らしさに対する嫌悪や蔑視」のこと。僕の中にはそういうものがあります。

つまり、出来れば男性の体には触れたくないし、安易に触れられたくないという気持ちがあり、古典的に男性特有とされる性質(隆々の筋肉、濃い体毛、声が大きい、支配的、短気など)を嫌悪、蔑視する傾向があります。

僕がそういう性質を持つに至ったのには、いくつかの、そしてそれなりの理由があります。でも自分の全てを把握できているとは限らないし、天性の部分もあるかもしれない。同性に対する嫌悪感はそのまま自己嫌悪にも繋がるのでわりと面倒くさいものです。

その裏返しとして「女性愛好(フィロジニー)」性も持っています。

これは相手が女性の体を持っているというだけで無意識に神聖性を感じたり、女性特有とされてきたもの(柔らかさ、繊細さ、多様な髪型や服装、化粧、装飾品、出産など)に対して憧れや特別な愛好心を持つ傾向のこと。

それぞれ、その対極には「女性嫌悪(ミソジニー)」、「男性愛好(フィランドリー)」という性質があります。

いずれも偏見の一種であり、心の傾向です。

対象
偏向
呼称
男性に対する
尊敬/崇拝
フィランドリー
嫌悪/蔑視
ミサンドリー
女性に対する
尊敬/崇拝
フィロジニー
嫌悪/蔑視
ミソジニー

これらの傾向は体や心の同性、異性に関わらず持っていることがあります。

例えば、男性が「女性嫌悪(ミソジニー)」性を持っていると女性を精神的に見下したり、支配しようとしたり、酷い場合には暴力を振るったりしますが、女性にもさまざまな理由で「女性嫌悪(ミソジニー)」性を持つ人はいて、自己嫌悪によって自分を傷付けようとしたり、粗雑に扱われることを無意識に望んだりするそうです。

どの性質も持っていない人は、相手の性別に関わらず、同じように見て同じように扱うことが出来ているということ。僕もそうありたいと望んでいるのですが、残念ながらそうではありません。

僕は「男性嫌悪(ミサンドリー)」かつ「女性愛好(フィロジニー)」性を持った「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」です。

自分の性を何だと思っているか

次に、自分の心が自分の性をどう感じているか、という視点があります。精神的な性の自覚。これを性自認といいます。

今のところ、男性、女性、中性、両性、無性、不定性という分類が出来るといわれています。

男性
自分を男性だと感じる
女性
自分を女性だと感じる
中性
男性と女性の間に位置する別の性だと感じる
両性
男性と女性の両方の性質を持っていると感じる
無性
性を持っていると感じない
不定
そもそも自分の性を定義しない

僕の性自認は両性です。女性的な部分が6、7割、残りが男性であると感じています。

僕の場合、この自認は旧来の型化された概念(ステロタイプ)に基づいています。男性の服より女性の服が好き、男性の持ち物より女性の持ち物が好き、男性的といわれる色より女性的といわれる色が好き。精神性も、男性的といわれる部分より女性的といわれる部分が自分に近いと感じます。

両性にもいろいろな自認を持つ人がいますが、僕の場合はなだらかなグラデーションを持つタイプで、日によって流動性があります。

体の性と心の性が異なることを性的違和といいますが、僕の場合、幸いなことに違和があるのが精神的、趣味的な性であるため発露してもそれと気づかれにくく、たまたま性的欲求の対象も同性以外に向いていることから、周囲の認識の上で男性として扱われることにあまり差し障りがありません。

例えばちょっと可愛い柄の入ったシャツを着たりはしますが、それ以上の女性的な部分は、自分の代わりにそれを楽しむ女性を愛することで昇華できています。

ただ、僕の内面の多くの部分が女性であるとして、それでいて女性の体を愛しているのですから、ある意味では「同性愛(ホモセクシャル) 女性 」が僕の中の多くを占めていると表現しても良いのかもしれません。

また、現時点では性自認の対義語は生まれていませんが(僕が知らないだけかもしれないけれど)、本来こうした物の見方には、自認の逆、つまり自分以外の人の心の性をどのように見ているかという視点もあるはずです。

僕には自称男性、自称女性も含めたほぼ全ての人が、自分と同じ両性のグラデーションに見えています。そこには色んな中間色があり、多様です。人の心に性の区別はなく、そこには傾向があるだけ。それが僕の世界の見方です。

それを踏まえて自己紹介をやり直しましょう。

僕は「男性嫌悪(ミサンドリー)」かつ「女性愛好(フィロジニー)」性を持った「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」で、精神的には「同性愛(ホモセクシャル) 女性 」と「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」の両方を抱えつつ、他の人もそのように見えています。

自分の性をどのように表現するか

性には内面的な部分の他に、対外的にどのように振る舞うか、という側面もあります。こうした概念を性表現といいます。

例えばファッション。僕は若い頃、一度だけ背中まで髪を伸ばしてみたことがありました。もともと体つきが華奢だったのもあって、薄手のカーディガンを羽織って出かけたり中性的な服装を好んでいました。

これは、ある意味では女性寄りの性表現とも捉えられるかもしませんし、そう思われることを嫌だとは思っていませんでした。

酒席の戯れで知人女性3人に捕まり、下地からチークまでフルメイクされたこともあるのですが、その時は若かったこともあり、仕上がりが思っていたより良くて内心ご満悦でした。子供の頃から女性のアイメイクが好きだったので、化粧落としを借りて洗面所に行った時、ビューラーとマスカラとアイシャドー、アイライナーで見事にぱっちりした自分の目元を何度も見返したりして、落とすのが少し惜しい気持ちになったことを覚えています。

でも、今の性表現は、ほぼ男性側で安定しています。

内面的な感覚を正確に表現するのはとても難しいですが、宝塚の男役の気分、というのが一番近いかもしれません。スーツを着て男らしく振る舞うことは、僕にとってそういう楽しさがあります。

つまり僕は「男性嫌悪(ミサンドリー)」かつ「女性愛好(フィロジニー)」性を持った「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」で、精神的には「同性愛(ホモセクシャル) 女性 」と「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」の両方を抱えつつ、性表現は男性寄りです。

自己紹介が長くなってきましたね。でも、セクシャリティの概念はまだあります。

性的欲求を抱く相手の心の性

今度は性的な好意や欲求を抱き得る相手の話、性指向です。

前述の通り、僕は女性の体しか求めていません。だからこそ「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」として振る舞えるのですが、でも、正確に表現すると少し違います。

僕が性的な好意や欲求の対象としないのは、体が男性の人と、性自認が男性の人だけです。つまり、女性の体を持った中性、両性、無性、不定性の人はその対象となり得ます(無性の人は性的な感覚を持たないので指向が一致することはあり得ませんが)。

これを「多性愛(ポリセクシャル)」といいます。

無性愛
(アセクシャル)
誰にも性的感情を抱かない
同性愛
(ホモセクシャル)
同性を対象とする
異性愛
(ヘテロセクシャル)
異性を対象とする
両性愛
(バイセクシャル)
男女両方を対象とする
多性愛
(ポリセクシャル)
複数の性を対象とする
全性愛
(パンセクシャル)
あらゆる性を対象とする

バイセクシャルは2つの性、ポリセクシャルは3つ以上の性が対象になると説明している解説も存在しますが、bi-は「(単方向に対する)双方向」という意味の接頭辞なので、男女のみを基準にしているとみる方が自然でしょう。

そもそもホモセクシャル、ヘテロセクシャル、バイセクシャルは、男女という生物学的な性の枠組みを基準に作られた古い概念なので、中性や両性、無性、不定性の人たちは対象となっておらず、再整理する必要があるというのが僕の考え方です。

また、現時点では性指向は一人に一つ、という風に語られることが多いですが、精神的な好意と肉体的な欲求では指向する対象が別、という人もいます(例えば「非性愛(ノンセクシャル)」を自称する人は、恋愛感情は持っても肉体的な性的欲求は誰にも抱きません)。

そう言う意味ではまだまだ不完全な分類です。

ともあれ僕は「男性嫌悪(ミサンドリー)」かつ「女性愛好(フィロジニー)」性を持った「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」で、精神的には「同性愛(ホモセクシャル) 女性 」と「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」の両方を抱えつつ、性表現は男性寄りで、「多性愛(ポリセクシャル)」な性的指向性を持った人間ということになります。

同時に何人を愛せるか

さて、突然ですが、貴方は同時に何人の人を愛することができるでしょうか。一人ですか?

これは比較的新しい概念で、まだ学問的には整理されていないし概念全体を表す言葉もありませんが、だからこそ誤解が生じることも多いと思うので敢えて取り上げます。

現状で語られているのは、おおよそ以下の2分類です。

モノアモリー
恋愛、性愛の対象を一人に限定する人
ポリアモリー
恋愛、性愛の対象を一人に限定しない人

これは一見とてもわかりやすい分類のように見えるかもしれません。一夫一妻婚(モノガミー)が制度化されているこの国では、モノアモリーであると表明するのは簡単で、誰もがそう言いやすい。が、僕は現時点では、そうしたモノアモリー主張の大半に懐疑的です。

例えば「対象を一人に限定する」というのは、「同時には」ということでしょうか。それとも「生涯」でしょうか。

仮に「同時には」という但し書きを付けるとして、それは「何らかのパートナー契約(正式に交際を申し込んだ恋人、婚約者、配偶者などとの関係)が続く間」だけを指すのでしょうか。それとも「常に」?

自称モノアモリーの中にも、パートナー契約の最中に「好きな人が出来た」と言って関係を解消する人はたくさんいます。パートナーとは別に、好みの芸能人や有名人を熱心に追いかけている人もいます。短期間にいろいろな人と付き合っては別れる人もいます。果たしてそれは本当にモノアモリーなのかと考えると、大いに疑問が残ります。

明確な定義ができないなら分類も出来ません。

逆にポリアモリーの定義を検索すると「浮気や不倫ではなく」という表現が出てきます。確かに、モノアモリーは一夫一妻婚(モノガミー)社会の正義に紐づいていて、それが語られる際には「我こそは行儀の良い誠実な人間だ」という含みがあるので、その正義に抵抗しようとするとそういう前置きが必要になることは理解できます。

でも、セクシャリティを語る場合、パートナーシップの持ち方や倫理性は本来関係がありません。

セクシャリティとは単なる性質であり、その分類だからです。

Wikipediaによるポリアモリーの解説には「関与する全てのパートナーの同意を得て」関係を構築する旨の表記がありますが、それもまたアーミッシュやヒッピーのような、ある種の正しさを含んだ生き方と思想としてのポリアモリーを指していて、セクシャリティとしては語られていません。

そういう意味で、この概念もまだ未熟だと思います。

ちなみに僕は、純粋な性質としてのモノアモリーとは「現在の対象を自発的に愛さなくなるまで他の何者をも愛せない人」のことだと仮定しています。

モノアモリー
現在の対象を自発的に排除するまで他の誰かを好意、恋愛、性愛の対象にすることが出来ない人(排他性がある)
ポリアモリー
現在の対象を排除しなくても他の誰かを好意、恋愛、性愛の対象に出来る人(排他性がない)

するかしないかではなく、できるかできないかの問題です。自分にパートナーがいるかどうかという環境条件に関わらず人に好意を抱くことが可能なのであれば、それはすなわちポリアモリー性であると僕は考えます。

また、そういう意味で、僕は自分にポリアモリー性があることを感じています。僕はもともと、人に対する信頼や好意に相手の人間性以外のものを加味することがないからです。

現時点ではポリアモリーという言葉の指す幅は広い。複数人と同時に性関係を構築する人も含まれるし、いろいろなやり方で愛情を分配できる人も、場面によって切り替えられる人も、単に排他性がないだけの人も含まれる。それが僕の認識です。

自己紹介、そして

僕は「男性嫌悪(ミサンドリー)」かつ「女性愛好(フィロジニー)」性を持った「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」で、精神的には「同性愛(ホモセクシャル) 女性 」と「異性愛(ヘテロセクシャル)男性」の両方を抱えつつ、性表現は男性寄りで、「多性愛(ポリセクシャル)」な指向性を持ち、ある種の「ポリアモリー」 性 を持っています。

これが現時点での僕のセクシャリティに関する自己紹介です。

あくまで、現時点での。

セクシャリティは決して不変ではありません。性的な感性は後天的に形作られる部分も多く、流動的な人もたくさんいます。

SOGIのような比較的新しい分類ですら、まだ僕個人の性質を正確に記述するには至っていませんし、ここでは取り上げなかった用語もたくさんあります。誰かが新たな性の概念に気づけば、それだけまた自己紹介は長くなるでしょう。

結局のところ何を言いたいのかと言えば、人は多くのケースでなんらかの少数派(マイノリティ)に属し得るし、少なくとも、異性愛(ヘテロセクシャル)という古典的な属性だけで多数派(マジョリティ)になどなり得ないということです。

モノアモリーひとつ取っても、もしかしたら「相手が振り向こうが振り向くまいが生涯でたった一人の人を愛した人」だけが真のモノアモリーといえるのかもしれない。もしそういう価値観が市民権を得る時代が来れば、該当しない人は皆それぞれ別種のポリアモリーということになり、その時には分類がもっと細分化されるでしょう。

そういうことを実感する人が増えたからこそ、お互いがお互いを邪魔せず存在を認め合うダイバーシティ(多様性に寛容な社会)という要求が生まれているのだと思います。

最近では各国で同性婚が認められつつありますが、それでもまだ寛容さにはほど遠い。

例えば、現在、多くの先進国では一夫一妻婚(モノガミー)しか認められていません。僕自身、生まれてこのかたそういう世界に生きているので、それが常識で正しい形のようにも感じます。

しかし、1949年に行われたある研究調査によれば、世界に238存在する社会の内、一夫一妻婚しか許さない社会は43だったそうです。わずか18%。だとすれば、それもさして常識ではないということです。

セクシャリティは多様化しているのではなく元から多様であり、多数派(マジョリティ)など本当は最初から存在していない。

それが、僕が現時点で最も有力視している仮説です。

おわりに

本記事で取り上げなかった用語や概念について、以下に補足します。

シスジェンダーとトランスジェンダー

心の性と体の性が一致している人をシスジェンダーといいます。一致していない人がトランスジェンダーです。

身体的には男性で心が女性と自認している場合をMtF、身体的には女性で心が男性と自認している場合をFtMと表記することがあります。

Xジェンダー

Xジェンダーとは、性自認が「男女の枠組みにあてはまらない」と認識している人たちの総称です。前述の分類では中性、両性、無性、不定性がそれに該当します。

男性の体を持つXジェンダーをMtX、女性の体を持つXジェンダーをFtXと表記することがあります。

ただしXジェンダーはあくまで日本での呼称で、国際的にはジェンタークィアと自称する人が多いようです。ただ、クィアはもともと「変わり者」という意味の蔑称(ニュアンスとしては「変態」に近い言葉)で、ある種の思想的活動によって自称として広く使われるようになった経緯があるため、他称や総称としての使い方には注意が必要です。

不定性と無性の違い、流動性との混同

「自らの性を定義しない人」の持つ性を「不定性」といいます。性が無いと感じる「無性」に対して、そもそも性を定義するという概念がない、ということ。

ただ「性が不定である」という言葉の曖昧さから、メディアにおいては、性が固定的でない「流動性」と混同して扱われているケースがあります。

未定である自由

セクシャリティには体の構造のような先天的な部分と、経験と気付きによって自覚する後天的な部分があるため「自らの性が未定の人」も当然存在します。

そうした人はクエスチョニングと呼ばれることがあります。そう分類するようになった背景には「まだ考えている人を無理に既存の分類に当て嵌めさせない(自分を決定する自由を奪わない)」という配慮もあるようです。

SOGI

Sexual Orientation(性指向)とGender Identity(性自認)の頭文字ですが、Gender Expression(性表現)も含んでおり、SOGIEと表記することもあるようです。

LGBTがマイノリティだけの集合であるのに対して、セクシャリティを性指向、性自認、性表現という複数の軸で捉えることで、マジョリティ、マイノリティ関係なく「誰もが自分の性を等しく記述できる枠組み」として提唱されました。

個人的にはこうした取り組みには賛成ですし、この記事もSOGIの定義を基にして書かれている部分があります。

ただSOGIにも弱点はあり、性指向に「同性」「異性」という相対的な古い概念を引き入れてしまったせいで、定義できない性(新たなマイノリティ)を生んでしまっているという印象があります。多様な指向性を分類するなら、性的感情を抱く心の性は何か、体の性は何か、という絶対的な記述を出来るようにすべきだろうと思います。

生き方としてのポリアモリー

(6/25追記)ポリアモリーが思想的に語られる場合、それはある種のライフスタイルの実践者を指しています。もともとポリアモリーは、一夫一妻制に捉われないノンモノガミーという思想から派生した新しいパートナーシップの形として提唱されました。その後、独自の倫理感や哲学を確立しながら、ある種の思想的共同体を形成しています。

一方、英語版Wikipediaに...and some believe polyamory should be classified as an orientation or identity similar to romantic orientation, sexual orientation, or gender identity(ポリアモリーは恋愛指向、性的指向、または性同一性と同様の指向または同一性として分類されるべきという見方もある)とある通り、対義語とされるモノアモリーと共にセクシャリティの一つの概念としても論じられるようになっていて、本記事ではそちらに焦点をあてています。

個人の解釈も含まれますが、「なんだろう」と思っていた言葉や概念を調べるきっかけになれば幸いです。

僕の好きな鈴木先生という漫画原作のドラマに、こんな台詞がありました。

お前のその価値観は許されている。だが忘れるな。その価値観が正しいんじゃない、ただ許されているだけだ。ほかのあらゆる価値観、あらゆるエゴと同様、その存在を許されているだけだ。

— 鈴木先生 (2011年) 原作・武富健治

本記事の執筆にあたっては、それなりに迷いもありました。

だからこそなるべく正確に、誠心誠意書いたつもりです。でも、セクシャリティはとても個人的でセンシティブな問題です。もしかしたら、せっかく興味を持って読んでくれた貴方をどこかで傷つけているかもしれない。或いは混乱させたり、怒らせたりしているかもしれない。そのことを謝罪します。

最後までお読みくださって、本当にありがとうございました。

一人でも多くの人が、自分という存在をフランクに紹介し合える時代が来ることを願って。