父の背中

先日、何気なくGoogle検索していたら、なんとも思いがけないものを見つけた。

とある古書店のサイトで、『VOU』という古い雑誌のインデックスに、父と同姓同名の名前が書かれていたのだ。

『VOU』というのは、明治から昭和の半ばまでを生きたモダニズム詩人、北園克衛が主催していたVOUクラブの機関誌、ようするに詩誌だ。

断っておくと、僕の父は建築家だった。決して作家や詩人などではない。建築の世界の中ではたまに原稿を書いたりしていたので、世の出版物に多少は名前が残っていないわけでもないが、少なくとも詩誌に名前が載っているなんて話は、生前には聞いた事がなかった。

ただ、接点としては思い当たる節がないわけでもない。

というのも、北園克衛という人物は、詩人でありながらグラフィックデザインの才能も持ち合わせていて、「写真も一種の詩たり得る」と語るような、詩人としては一風変わった人だった。『VOU』も非常にオシャレな装丁で、その作風は当時、多くの若い建築家やデザイナーに影響を与えたという。

父は高校時代、写真部だった。

そして建築の道に進んだ。

しかも詩作について、何やら一家言持っていた。

これは匂う。

よし、ならば国会図書館だ。

というわけで、早速、国会図書館のサイトにアクセスして、父の名前で検索をかけてみた。すると、少なくとも父と同姓同名のその人物は、件の『VOU』に自作の詩や写真を何度も投稿していたことがわかった。

これは確かめてみなければならない。

父親の若かりし頃の詩作を掘り起こすなんて、我ながらなんとも意地の悪い行為だと思ったが、その胸の内には、父についての長年の疑問がようやく解けるかもしれない、という想いもあった。

話は高校時代に遡る。

とあるクラスメイトが「私の友達、詩を書いてるんだ」と呟いたという、たったそれだけの理由で、僕は詩集を作ったことがある。

まあ、思春期にありがちな話だ。誰かの気を引きたいがために、相手が興味を持っていることを頑張るというような、他愛ない若気の至り。

とにかく僕は彼女に対して「詩なら僕も書いてるよ」と口走ってしまい、「え、ほんと?見てみたい」という、意外にも前のめりな彼女の反応に引っ込みがつかなくなってしまった。

いちおう弁解しておくと、詩を書いていたこと自体は嘘じゃない。小学校の文集には自作の詩が載っていたし、それ以降もたまに思いついた言葉をノートの端にぽつぽつ書き留めたりはしていた。

とはいえ、その程度だ。その程度のことで、堂々と「詩を書いてる」なんて宣言してしまうのだから、若さとは恐ろしい。

しかし、言ってしまったものは仕方ない。なんとか数日後に何編かの拙い詩(のような恥ずかしい散文)を仕上げて彼女に見せることはできた。

会話のきっかけにもなったし、それでおしまい、他の話題へ、となれば良かったものを、心優しい彼女がなまじっか褒めてくれたものだから、僕はいよいよ詩作にのめり込んでしまった。

いや、わかってますよ、社交辞令だってことくらい。

でもね、また話したかったんだもの。また褒められたかったんだもの。

そんなもんじゃないですか、若い頃の恋なんて。

当時の僕は、誰か有名な詩人の詩集を読み込んでいたわけでもなく、ただ、幼少期に鍛えられた国語力と、青春真っ只中の頭の中にある恥ずかしいアレやコレを掛け合わせて目の前の紙にぶつけていただけ。

それでも堂々とやっていると、意外に読んでみたいという人も現れたりして、よくわからないアイデンティティのようにもなってきたりして。

とにかく恥ずかしげもなく曝け出していたから、今の時代ならあっという間に校内のLINEグループやらSNSやらに晒されて酷い目にあっていたかもしれない。まあ、実際、当時でも裏ではひそひそ言われていたのかもしれないけど、あいにく僕はそういう部分にまるで鈍感なので、湧き出る言葉を思うがままに書き殴り続けていた。

で、続けていると、不思議と多少はそれっぽくなってきて、変に自信もついてくる。

それである時、経緯は忘れたけれど、そうやって詩を書いている旨を父に話したことがあった。

父は基本的に論理家で皮肉屋で、ロマンチックな流行り歌でも聴こうものなら二言目には「くだらない」「そんなものは綺麗事だ、偽善だ」とか言う人だったから、僕の詩なんてきっと鼻で笑われるだろうと思っていたのに、父はわりと真剣な表情で「ふうん」と髭を撫で、渡した紙束に目を通し、「詩というものはなぁ」と思わせぶりに語り始めた。

詩はただの文章じゃない、レイアウトも作品の一部だ、もっと改行やインデントに気を遣え、などなど云々かんぬん。思いがけず具体的なことを指摘され、内心とても驚いたのをよく覚えている。

なんだか最後の方は照れくさそうにもごもごしていたので、実際どうすれば良いのかはよくわからなかったが、とにかく父が僕の拙い書き物を馬鹿にせず、何かしらのアドバイスをくれようとしたのを感じた。

それから数日して、「これを読んでみろ」と中原中也の詩集を与えられた。

僕はちょっと背筋が伸びる思いがした。

父が理由も言わず、頼んでもいないものをくれる時は、僕のしたことが、何か彼にとって大切な分野の中でほんのりと期待を抱かせた時。つまり、お前はまだとても評価できるようなレベルではないが、ちゃんとやるならそこから始めてみろ、というような意味だった。

弁が立つはずなのに、自分の好きなものに誰かが近づいたときはもごもごとしてうまく共感を表明できない。父はいつもそんな風だったので、僕にとっては「詩を見せたら詩集をくれた」という、ただそれだけでも、半ば認められたような気分で、早速、通学の傍ら中也の詩に没頭し、傍線を引いたりページの端を折ったりするようになった。

そうして僕は自分なりに趣味で詩作を続け、世にインターネットが出てきた1990年代には自分のサイトで公開したりもしていた。

その名残で、今でも遊びで短歌を詠んだりする。

可愛い子には旅をさせよという諺があるが、若気の至りで恥ずかしげもなく突き進んだことが、大人になった時の人間の幅を広げてくれるということはままあることだ。僕にとって、高校時代の詩作とはそういうものだったし、なんとなくウマの合う詩集をぽんと手渡してくれた父には感謝していた。

でも、実は、中也を渡されたあの日から、父が亡くなるまでの数十年間、詩について何かを語り合ったことは一度もなかった。

父は、というか僕もだが、基本的に他人の趣味には踏み込まないタイプで、例えば、僕が彼の好きなジャズに興味を持てば、さりげなく入門者向けのCDをくれたり(自分の一番好きな曲を薦めるのではないところが父らしい)、TVゲームのように一度「くだらない」と断じたけど後になってそうでもなかったと思い直した時は、急に黙って自らゲームソフトを買ってきて始めたりと、万事そんな関係性だったので、詩についても、もらった中也の詩集を僕がきちんと読んで、それ以降も自分なりに続けていることさえ知っていれば、それ以上口出しする気はなかったのだろう。

けれど、僕は大人になっても、あの時、思いがけず正面から反応してくれた父の姿が、頭の片隅でずっと忘れられずにいた。

そういえば、父はどんな詩を読んでいたのだろう。

父は僕がどんな詩を書くようになったら喜んでくれたのだろう。

話が長くなったが、まあ、そんな想いもありながら、僕は国会図書館の書誌情報を眺めていた。列挙されていく父の名前と、詩のタイトル。

おいおい、自分も書いてたとは言わなかったじゃないか。え?親父。と内心ツッコんだが、まあ、とにかく複写を申請した。

あとは待つのみ。

それを待つ間に、北園克衛という人物について、もう少し勉強しておこうと思った。

僕がもともと知っていたのは、最初に書いた人物像くらいで、実際の作品をきちんと読んだことがない。

それで、いろいろ検索して出てきたのがこれだ。

読者の皆さんは、上記のサイトを見ても別になんとも思わないだろうけど、僕には大変に衝撃的だった。

だって、彼の作品はまさに僕の知る父の好きなデザイン、父の好きなレタリング。なにより北園克衛ご本人の印象がもう、服装から髪型まで一番キメてる時の父そのものなんだもの。

明らかに影響を受けてるのは間違いないというか、父のスタイル全般の元ネタというか。たぶん若かりし父にとって「歳をとったらこうなりたい」と思う姿だったんだろうと確信するには十分だった。

そして、北園の詩はレイアウトの美学そのもの。視覚的効果が前面に出ている。それが彼の詩作の特徴で、仮に父がその信奉者だったとすれば、あの改行がどうこうという話も全て合点がいく。

この時点で、『VOU』に投稿されたあの詩の作者が父本人だということは、ほぼ確定的に思われた。

そして、国会図書館から取り寄せた複写が届いた。

f:id:kazhomely:20211212165243j:plain著作権が切れていないのでぼんやりと。左が父の名前で掲載された詩。

改行の仕方がまさに北園にそっくり。少なくとも、北園の詩作の中でも特に代表的な「黒い装置」や「ガラスの環」などの詩に相当影響を受けているのが見て取れる。

一緒に掲載されている他の人の作品は必ずしも北園の志向をなぞっているわけではないのに、父の作品と思われるものだけはとても忠実だ。

もちろん、これが本当に父の作品かどうかはわからない。たまたま同時期にいた同姓同名の可能性もなくはない。父は既に故人なので、今となっては確かめようもない。

ただ、『VOU』にこれらの詩を寄稿した人物の方が明らかに今の自分より感性が若い。自分の通ってきた道を振り返ると、明らかに若い頃の自分を見るような気恥ずかしさを感じる。しかも、時系列的には逆だが「僕に似ているな」とも思う。

要するに、自分の感性に繋がるような若さを感じるのだ。

状況証拠は他にもある。一緒に取り寄せた写真作品は、僕の知る父の写真によく似ていた。年代も父の学生時代と一致している。そして僕の知る限り(Google先生の知る限りにおいても)、この時代の同姓同名は見当たらない。

そんなわけで、とりあえず僕の中では、これらは父の作品ということでほぼ確定である。

仮に、学生時代にこれを書いたのが父であるとするなら、あの時、僕の渡した詩を読んで「ああ、ダサいしショボいが、こいつは紛れもなく自分の子だ」と思ったことだろう。だったらもっといいものがあるんだ、と一言添えたくなる気持ちもよくわかる。

逆に、今は年上になった僕が若かりし父の作品を読んで同じようなことを感じたわけで、これはなかなかに感傷的な体験だ。

もちろん、想いを寄せるクラスメイトに読ませてウヘウヘしていただけの僕と、紛いなりにも憧れの詩人の詩誌に投稿して掲載された父とではだいぶ格が違うとは思うが。

良かれ悪しかれ、父の背中というものは大きい。

まあ、仮定に仮定を重ねたような話ではあるのだが、果たして僕は今、我が家の少年にどんな背中を見せているのだろう。自分亡き後、彼もいつか僕の書き物に触れて、何か感じるところがあるだろうか、と、久しぶりに詩の世界に触れたせいか、ちょっと詩的な感情が芽生えたりもしたのだった。

というわけで、思わぬところから父の世界と詩と死について考えた話。

ちなみにクラスメイトに読ませていた僕の恥ずかしい散文は、国会図書館にはもちろん置かれていないものの、ちゃんとファイリングして残してあり、どこか元気がなかったり自信を失ったりしている客人を腹の底から笑わせるのに、今でも一役買っている。

父とはずいぶん違うが、僕の書き物も誰かの感情を励起していることには違いない。それもいいじゃないか。

Poetry surrounds us everywhere, but putting it on paper is, alas, not so easy as looking at it.
詩は常に我々を取り囲んでいるが、それを紙に書き記すことは、まことに残念なことに、それを見ることほど容易くはない。

— ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ