不死鳥墜つ

父方の祖母と最後に会ったのは昨年の9月。

転んで足を悪くし特養老に入った祖母は、ほぼ寝たきりで過ごしていたせいか意識が虚ろになっていた。

ずいぶん前から同じ質問を何度も繰り返したり近しい親族を忘れたり、軽い痴呆の症状が出ても妻や息子の前ではなんとか記憶を辿って威厳のある態度を保とうとしていたけど、今回はさすがに限界かな、という感じがした。

祖母はそれなりな良家の生まれで、矍鑠(かくしゃく)とした人だった。記憶力が大変良く、ひとたび誰の何番目の息子が結婚したとかいう話が始まれば、どこの学校を出てどこに勤めているとか、その兄弟がどうしたこうした、名付け親がどうとか恩師が誰とか溢れ出す記憶は尽きず、そういう話に興味のない僕はうんざりしたものだ。人付き合いに五月蠅く、何かを送りつけてきたかと思えばすぐにお礼の電話がないという電話がかかってきたり、歯に衣着せぬ物言いでずいぶん母もやり込められていた。

母方の祖母がとてもおおらかで優しい人だったから、幼い頃はどうしてもそれと比べてしまい『狭量でどうでも良いことに過敏な人』という印象を持っていた。

実は、僕の母が家を出ていった理由のひとつが、祖父が亡くなった後の祖母の態度だったと後で聞いた。母が出ていった理由は決してそんな被害者じみたものだけではないし、僕には一言では言い表せない思いがあるけれど、それでもその理由に対してだけは「非道い」と思えないほど、祖母には確かに苛烈で嫌みな一面があった。人の性質には必ず理由となる背景があるものだが、当時の僕はそれを知らず、また知ろうという気もなかった。

両親は離婚し、さらに父が再婚を巡って親族と縁を切るような状態になってしまったので、父のもとで暮らしていた僕も親族と疎遠になった。その上、義母とは僕も折り合いが悪く、高校に通いながら家を離れた。卒業後は次第に父とも疎遠になり、誰とも連絡を取らなくなっていた。

そのまま10年が過ぎた頃、祖母が倒れたと連絡があった。連絡をしてきたのが父だったか、他の親族だったのか、そのあたりは何も思い出せない。病院を訪れた僕が見たのは、身体中に管を付けられて顔がパンパンに腫れ上がり、全身が土気色になった祖母の姿だった。医師から今夜が峠だと説明されたと聞かされた。覚悟しておいてください、と。

僕は、どこか他人事のような頭でその状況の中を漂いながら、まもなく潰えようとしている命をじっと見つめていた。思い出は何も浮かばず、涙も浮かばなかった。

祖母のそばには従姉妹がいて、その手を握っていた。記憶の中では小学校4年生くらいの少女だったのに、もうすっかり大人の女性になっていた。僕が一番辛かった時期、お兄ちゃんお兄ちゃんと慕ってくれて、おかげでずいぶん救われたことは忘れていなかった。そんな彼女が大人になってしまうほどの長い間、自分はここに存在していなかったのだな、と実感が湧いた。

僕は祖母に触れることも声をかけることもできなかった。看護師から、聞こえていますから話しかけてくださいと言われてようやく「がんばれ」と声をかけるのが精一杯で、うっすら目を開けたままの祖母は返事をするでもなく、所在なかった僕は表現し難い気持ちを抱えたまま病室を出た。

あの人はきっとあのまま死ぬだろう。ここにいるのは皆、家族だ。10年分の思いで涙を流せる人たちだ。

そこには考えないようにしていた漠然とした辛さだけがあって、久しぶりに会った親族とも上の空で会話をこなし、帰路についた。

自分でも他人事のように思えていた幸せな幼少時代を知る人がまた一人いなくなり、より現実感が遠ざかる。ただそれだけのことだと思っていた。

ところが、祖母は峠を越えた。

それどころか、その後みるみる内に回復し、数週間経って見舞いに行ったら、ICUにいたことが嘘のように元気になって一般病棟に移っていた。

「覚えてないけど見舞いに来てくれてたらしいわね」

そう言った祖母はずいぶん笑顔でこちらを見て、これから転院してリハビリに励むのだと言っていた。それはとてもよく晴れた日で、明るい病室と頬を撫でた風を今でもなんとなく覚えている。祖母がそんな顔をするのを、僕は初めて見たような気がした。

祖母は言った。自分たち兄妹は親を子供の頃に亡くしたから、その分の寿命が恐らく自分に宿っているのだと。死んでしまった両親が、まだ来るなと言ってくれたのだと。

祖母が良家にあって幼少期に両親を亡くし、親族の施しを受けながら過ごしていたことの意味を、僕はこの時までよく理解できていなかった。情報としては持っていたけど、初めて二人きりで向き合って話したことで、唐突にその意味が、祖母の抱えてきたものが自分の中に入ってきたような気がした。

やたらと体面にこだわり、人間関係にも五月蠅かった祖母。息子たちを躍起になってエリートに育て上げようとした祖母。夫が立派な身分であったことを自慢し続けた祖母と、その理由。

もしかすると、この日、僕の人生は来るべき日に向けて、どこかが変わり始めていたのかもしれない。

それから5年あまり経って、ある朝、今度は父の再婚相手である義母から電話がかかってきた。最初はまたろくでもない話だろうと出る気が無かったが、あまりにもしつこいのでとうとう出たら、父が末期癌に冒され、あと数週間で死ぬと告げられた。

久しぶりに会った父は「よう、こんなになっちゃったよ」とベッドで横になっていた。肝臓ガンが大腸にも転移し、いろいろ調べたがもう諦めたという。

死ぬまで誰にも言うなとか、死んだ後はどうして欲しいとか、矢継ぎ早に遺志を受け取った。その時すでにモルヒネを打たなければ耐えられない痛みがあったはずだが、「あんなものを打ったら頭がパーになって終わりだ」という父は、ずっと拒否し続けていた。延命治療もしなかった。

医師の診断は正確で、数度会う間にみるみる会話が出来なくなり、体を起こすことも出来なくなった。最後にはついにモルヒネを打たれて息を荒げながら眠るだけになり、そしてその直ぐ後、静かに亡くなった。

父の提案で家を出て15年あまり。「お前には苦労をかけた」という父らしくもない最期の言葉はどうやっても胸に残ったが、そこにはやはり父の手を握って涙にくれる義妹の姿があり、父の傍らも自分の居場所ではない気がした。

ともあれその遺志に従って家族葬で荼毘に付し、僕は父の弟二人に対して、父の死についての報告と、最期に会う機会を奪った事への謝罪の連絡をして回った。

問題は祖母だった。順序を間違えた息子の死をどうやって報告すれば良いのか。この時ばかりは、僕も叔父たちと一緒に頭を悩ませた。

過去のいざこざで縁遠くなっていたとはいえ、長男が自分より先に、しかも自分の知らない内に死んだとなれば少なからずショックを受けることは間違いない。「一度は死の淵から甦った『不死鳥』も、これではまた倒れかねない」と叔父が言い、僕も同感だった。

気がつけば、親族の問題をわが事として考えている自分を不思議にも思ったが、この喫緊の事態で深く考える余裕はなかった。

そこで真ん中の叔父がとんでもないアイデアを思いつく。当時、僕は結婚を前提に女性とお付き合いをしていて、父にも急遽紹介したし、死後そのことを叔父たちにも伝えていた。叔父はそれを利用して「突然だが貴女の長男は死んだ、しかし初孫が結婚する」と、いっぺんに話してショックを和らげようというのだ。あまりにめちゃくちゃだが、他に妙案が浮かばないのも事実だった。

しかしそれは完全にこちら都合の政略結婚のような話で、付き合っていた彼女にとっては唐突で失礼な話だと思った。ところが彼女は、僕の見ていない僅かな隙に父から「あいつを頼む」と言われていたらしく、死の哀しみを有耶無耶にするネタとして婚約を公言することを了承してくれた。

かくして長年行方知れずだった不幸な孫が復帰するという名目で親族一同が祖母の家に集められ、僕は父の死と自分の婚約を同時報告するという、不可思議な任務を負うことになった。

当日、一人で祖母の家に行った僕は、事前の打ち合わせ通り、親族の前で上記二つの話を立て続けに話した。実際には半分くらいは叔父たちが説明してくれた。祖母は納得したようなしないような怪訝な顔をしていたが、すかさず叔母たちが結婚話をやんやと盛り上げた。

祖母は「(長男)が死んだのか。なんでかねえ。でも(孫)が結婚するのか。良かったねえ」とぶつぶつ言いながら落ち着かない様子でうろうろしていたが、少なくとも大きなショックは与えずに済んだようで、あれなら大丈夫だと一同は胸をなで下ろしたのだった。

その時、祖母がぽつりと言った。

結婚式には貴方のお母さんを呼んであげなさい、と。

どういうことだか意味がわからなかった。母は確かに僕にとっては母だが、祖母にとっては息子を裏切り、夫亡き後、当の自分を放りだして逃げた人間であるはずだ。僕ですら心から許したつもりはない。

「あと仙台のおばあちゃんも呼んであげなさいよ、いい人だったじゃない」

僕は完全に混乱した。なぜそこで母方の祖母の話が出るのか。何十年も前から会ったこともないだろうに。

でもそれは、僕にとって思いもよらぬ奇蹟の一言だった。母はともかく、僕は仙台の祖母が子供の頃から大好きだったからだ。ずっと会っていなかったけど、もしいつか結婚することが出来るなら、その姿を見て欲しいと一番に願っていた。けれど、あらゆる意味でそんなことが出来る可能性はこれっぽっちもないと思っていた。

僕は携帯に残されていた昔の番号から母と仙台の祖母に連絡をとり、父が亡くなったこと、結婚を考えていること、祖母が二人を呼びなさいと言ってくれたことを伝えた。

こうして僕は、父と母が気まずい顔を合わせることもなく、ましてや親族と義母が顔を合わせて諍いが起きるでもなく、大好きな母方の祖母を招いて結婚することができた。披露宴やウエディングケーキは無かったが、当時住んでいた家の近所の神社で近親者だけのつましい式を挙げた。それが如何に奇跡的なことなのか、どれだけあり得ないことが揃った結果か、全てを説明することはできない。

ともかく、その奇跡の一端には祖母がいた。

そんな祖母が亡くなったと聞いたのは、先日、年が明けた1月10日の夜のことだった。叔父から連絡があり、僕は参列の旨と花を出すことを伝え、その翌々日に家族だけの通夜告別式が執り行われた。

不思議とそれほど哀しくはなかった。

それは情が湧かなかったからではない。居場所がなかったからでもない。もう、心残りがなかったからだ。

葬儀が終わり、火葬場に向かうまで祖母の亡骸を待つ間、遺影を持って立つ真ん中の叔父が「孫が5人、ひ孫が3人。‥‥充分だよなぁ」と誰に言うでもなく呟いた。

父の代わりに手向けの花を抱えた僕が「うん、充分ですね」と応えると、叔父は目を赤くして「充分だ、充分だ」と自分に言い聞かせるように頷いていた。

不死鳥墜つ。享年97歳。

彼女のおかげで僕は今、普通の人のような顔をして生きている。