花の散る時

少し前、仕事の打合せに向かうため都内の地下鉄に乗っていた時の出来事。

車内はそこそこ混雑していた。

ある駅でドアが開いた時、遠くから子供特有の甲高いざわめきが聞こえた。
程なく小学生が大勢乗り込んでくる。
僕は子供の声、とりわけ集団になった子供の声が苦手なので少し警戒したけど、車内での彼らは取り立てて騒ぐこともなく静かだった。
話が盛り上がって誰かの声が少し大きくなると、他の子がそれとなく注意しているようだ。
男女比は7:3くらいだろうか。
制服からして、どこかの私学の児童だろう。

近くに立っていた上品なご婦人が、ふと振り返って、にこやかに話しかけた。

「あら、今日は揃ってどこかへお出かけ?」

それに答えたのは一人の背の高い少女だった。

「はい、東京駅まで」

簡潔かつ美しい受け答え。
その後もご婦人の二言三言に、少女ははきはきした敬語で答えていた。
さすが、私学に通う子はしっかりしているな。
などと思いながら、その様子を微笑ましく見ていた。

ところが、少し離れたところにいた男子の集団がにわかにざわめきだした。
少女を見てヒソヒソ何かを囁きあっている。
何事かと思って見ると、集団の中から一人の少年が歩み出て、彼女に向かって言い放った。

「お前、誰と話してたんだ」

少女は一瞬固まって、ばつが悪そうにご婦人を目で指した。
少年は、彼女の見た方向をちらと一瞥すると、続けてこう言った。

「知らない人に行き先を聞かれて、本当の事を言ったのか?」

それで僕にもようやく飲み込めた。
彼らが何を問題にしていたのか。

「そういう時はお茶の水だとか適当に言えよ」

少年はそう言った。

知らない人から物を貰うな、ついていくな。
そういう教育は僕の頃からあった。
最近はもっと厳しいのだろう。

話しかけられても本当のことを答えるな。

彼は恐らく、受けたであろう教育に忠実な発言をしているだけだ。
混雑した車内では誰が聞いているかわからない。
後をつけるような人間もいるかもしれない。
そう、確かに間違っていない。

「いろいろ大変なのね。話しかけたりしてごめんなさいね」

ご婦人は少女にそう言って、なんとなく寂しげな表情で窓の外に顔を向けた。
首を横に振った少女は、しばらく所在なさげにした後、とぼとぼと彼らのもとを離れていった。

少年と少女は知り合いのようだったし、心配したからこそあんな言い方をしたのかもしれない。
確かに自衛としてはそれで良い。
大人の感覚で言えば、「知らない方に訊かれても答えないよう言われているので。すみません」とでも対応できれば満点だったのかもしれない。
しかし、そんなことをランドセル姿の少女に求めるのか?
果たして彼女は間違っていたのだろうか。

僕には、そうは思えなかった。
責められ、返す言葉を失った少女が俯いてぽつりと言った言葉が、今でも胸に残る。

「だって‥‥本当の事を言った方がいいじゃん」

彼女もまた、教わってきたことを正しく実行した。

嘘はいけない、正直でいなさい、人には親切にしなさい。
歌や絵本や物語でそう教え、育てたはずの子供たちに、今度は、近づいてくる人間を疑え、嘘をつけ、身を守れと迫る。
子供たちは、大人の期待に応えようと必死だ。
僕らはいったい、彼らに何を期待しているのだろう。
どんな世界で、彼らを迎えるつもりなのか。

とても大袈裟に言うなら、あれは人から尊い何かが失われた瞬間だった。
そうさせたのは、矛盾を放り投げて歩いてきた大人の事情に他ならない。
後進の為に環境を作るのは、先に生まれた者の責任。
僕はもう、それを果たすべき場所にいる。

それを強く思った、ある日の出来事。