非日常と日常「ハレとケ」の話

ハレとケ、という概念がある。

ハレとは晴れ。晴れ着、晴れの日、晴れ舞台という言葉通り、飲み会やイベントのような非日常。
ケは褻と書き、ハレ以外の時、普段の生活、何も特別なことの起きない日常のこと。

僕はこの概念を、仕事先の山村に研究・調査に来ていた民俗学専攻の学生たちから学んだ。
ケという言葉と概念は現代では廃れてしまったけれど、昔は、例えば晴れ着の反対、普段着の事を褻着と呼んだりしたそうだ。
そして、ハレとケはいずれも等しく大切なもので、バランスが肝要なのだという。

お祭り騒ぎであるハレに型はなく、荒唐無稽で意味がないからこそ気晴らしになる。
ケは実生活。衣食住、生業、家庭、子育て。自分を形作り、人生を維持するサイクルそのもの。

日常をしっかり捉えて地に足を付け、自分を成長させながら来たるハレに備える。ハレの日には人と心を通わせて非日常を躊躇なく愉しみ、英気を養ってケに備える。

僕の感覚で勝手に付け加えるなら、たぶん、ハレは楽しみ、ケは幸せに通ずる。

それは言いかえれば、気持ちと心。

気持ちと心は似ているようで真逆、虚と実の関係にあるというのが、僕の考え方だ。
楽しい、悲しいと感じる気持ちは、本来の状態からのブレで生じる波のようなもの。波に乗れば新しい景色が見えたり、勢いがつく。反面、波を乗り越えるには体力や精神力を消耗するし、大きくし過ぎれば波にのまれる。そして波は、いずれ消える。
幸せ、つまり存在価値や尊厳といったものは心の内に残る。それは人生の基盤のようなもの。地味で見えにくいが、積み重ねれば少しずつ底上げされ、めったなことでは壊れず安定している。

専門的なことはわからないけれど、昔の日本人はこれらをバランスよく得ることで人生を上手く維持できることを、経験的に見出したのだろうと思う。

SNSを見ていると、どうしても僕の日常には乏しい好みの店や料理、今もただ憧れたままの趣味、自分にはない付き合い、そういうものに目が行ってしまう。美味しそうで、楽しそうで、羨ましい。
でも、それがあくまで他人の日常なんだということは忘れないようにしている。

他人の日常は自分の非日常。
一緒になってやってみても、それはハレにしかならない。
ハレを楽しむには、それ相応のケの備えが必要だ。

人に振り回された時、心身のバランスを崩したり、大切なものを見失うのには、きっとそういう理由もあるのだと思う。

ハレとケ、非日常と日常、気持ちと心、ボーナスと月給、ときめきと幸せ。
およそ何にでも通じそうなこの概念を、僕はこれからも大切に持っていようと思う。